【信越本線 横川機関区】碓氷峠鉄道文化むらに行ってみた!
~これより音にきゝゐたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛けは外にたぐひなし
くゞるトン子ル二十六 ともし火うすく昼くらし いづれば天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ~
こちらは鉄道唱歌信越本線バージョンで、横川ー軽井沢間を歌った部分になります。
今や当該区間は廃止となり、鉄道での移動は出来ませんが、当時を知る様々な文化財などがあります。
例えばかつての横川機関区跡地には、当時を知る鉄道文化むらという施設があります。
みなさん、こんにちは!
本日は前回の予告通り、鉄道文化むらについてと、横軽協調運転について少し触れます。
横軽協調運転
まずは、かつて信越本線で行われていた協調運転について、簡単に見ておきます。
信越本線は、東海道本線の迂回路という側面もあり、当時から重要な役割を担っていました。
東海道本線が日本の大動脈を担ってきたことは言わずもがなですが、全線にわたって海の近くを走行しているという点が実は問題視されていました。
それこそ、太平洋側からの攻撃などで被災した場合、物流などに大きな支障をきたす可能性があったのです。
そこで、江戸時代の五街道のひとつ、中山道にそったルートの構築が望まれ、信越本線は開通します。
群馬県横川と長野県軽井沢には、国鉄、JR最急勾配となる66.7‰の碓氷峠が存在し、交通の難所としてその名を馳せていました。
冒頭、鉄道唱歌にも歌われたように、26ものトンネルが存在し、海外では登山列車に使われるラックレールを用いた運転がされていました。
また、それだけではなく、当時蒸気機関車が一般的だった時代に、トンネル内での排煙の充満による運転士の中毒などを防ぐ面から、開業当初より電化されていたことでも知られています。
基本的に登山列車など、ラックレールは本数が多くない路線に使われる中で、幹線に採用されるという極めて特異な区間でした。
しかし、電車の本数は増える一方で、ラックレールによる運行は限界に達していたため、新たに新線を新設、EF63機関車による協調運転が開始されました。
軽井沢方面への列車を最後尾から押し上げ、横川方面への列車は最前でブレーキをかけながら坂を下りました。
具体的には、軽井沢方面への列車で、あさまの運転士は信号確認を、車両全体の制御は機関車側で行うといった方法がとられました。
横川方面の列車はEF63側で信号確認と車両制御を行っていました。
碓氷峠を通過する全ての旅客、貨物列車に機関車が連結され、それらの基地となる施設が横川駅に併設されていました。
当時の横川機関区です。
しかし、時代の進歩とともに、幹線としての役割は北陸新幹線に渡り、当該区間が廃止になります。
広大な横川機関区の再利用ということで、その跡地は当時を知る鉄道文化むらになっています。
鉄道文化むら
ここは、当時の列車たちを保存しているほか、協調運転の歴史などが展示されています。
横川駅から当施設まで線路も続いており、当時は鉄道の要所として栄えていたであろうことは簡単に想像がつきます。
EF63が複数機保存されているほか、動態保存のものもあり、厳しい講習などを受けることで敷地内を実際に運転できます(要予約)。
車両中心部の機関なども観察できます。
また、いわゆる機関区の詰め所のような建物も現存し、こちらは資料館として活用されています。
当時の様子を知る事はもちろん、鉄道模型で遊ぶことも出来、小さなお子さんも楽しめます。
いかがだったでしょうか?
横川機関区の跡地を再利用した鉄道文化むら。
当時を知ることが出来るのはもちろんのこと、珍しいことに実際の機関車を運転することも出来るなど、貴重な鉄道施設だと思います。
アクセスも比較的容易で、新幹線などを使えばすぐに行くことが出来ます。
大宮の鉄道博物館以外にも楽しめる場所ということで、一度は足を運ぶのも楽しいと思います。
今回もお読みいただきありがとうございました。