通勤五方面作戦。
それは、東海道新幹線の開業に匹敵するほどの国鉄屈指の大事業と言えるでしょう。
ちょくちょく当ブログ内には登場していた単語ですが、詳しく書いたことがなかったので、かる~く触れてみたいと思います。
時は1960年代、首都圏の鉄道路線網は乗車率300%を超え、通勤地獄、殺人的ラッシュと揶揄されていました。
国鉄は従来より使用されていた72系電車を101系に置き換えるなど、輸送力の増強は図っていましたが、利用者は増加する一方でした。
首都圏の鉄道ネットワークは山手線を中心に、中央線、東海道線、総武線、常磐線、東北本線の五方面に伸びる路線が担っていることが分かります。
当作戦の名前の由来はここから来ています。
全体的な概要としては、線路を増やすことによって複々線化し、運行できる電車の数を増やそうという考え方です。
東海道本線
まずは東海道線系統です。
従来、横須賀線と東海道線が線路を共有しており、ダイヤ作成上のネックとなっていました。
そこで、俗にいうSM分離を行います。
従来の東海道貨物線は旅客化、別途貨物路線を新設するというのが概要です。
横須賀線の経緯なども説明しているので、詳しくはコチラもご参照ください。
kishuji-kaisoku.hatenablog.com
総武本線
五路線の中で最も混雑率が深刻だった総武線。
総武線の考え方は比較的簡単で、千葉までの区間で各駅停車、快速、特急が共用していた線路を分離させるというものでした。
また、快速線の東京駅乗り入れを同時に行うことで、千葉方面から東京へのアクセス利便性が向上しました。
総武線の経緯についてもコチラをご参照ください。
kishuji-kaisoku.hatenablog.com
また、併せて営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線への直通運転もこの時期に開始されました。
JR所属ながら、東西線直通用車両が三鷹車両センターに所属しています。
常磐線
続いて常磐線です。
この路線もまた、北千住から取手までの区間で緩急分離を行うこと、必要に応じて営団地下鉄千代田線への直通が決まりました。
緩行線が千代田線に乗り入れることで、運賃が割高になること、東京駅に行かないことなどを理由に迷惑乗り入れなどと称されています。
現在も根本的な問題は解決していないものの、上野東京ラインの開業や、小田急線までの乗り入れなど、別の方面からの利便性が図られています。
東北本線、高崎線
この区間は従来、列車線と貨物線が敷設され、複々線の環境は整っていました。
ただ、列車線を京浜東北線と宇都宮、高崎両線が共有し、線路容量が限界でした。
そこで、貨物線を旅客線に転用、新たに貨物線を敷設し、三複線化されました。
また、これに合わせて川口ー大宮間の立体化も行われ、踏切が撤去されました。
中央本線
続いては中央線系統です。
中央線は、東京西部に延び、開発が簡単だったことや、人口増加の可能性があったことから、五方面作戦以前から複々線化が行われています。
中野まで開業していた複々線を、当作戦時には立川まで延伸する計画でしたが、事情あって三鷹で凍結しています。
また、中野から東西線に乗り入れも併せて計画され、三鷹車両センターには東西線直通用のE231系が配属されています。
いかがだったでしょうか?
国鉄を経営破綻に追い込んだ事業の一つと言われる一方、殺人ラッシュを緩和させた点から成功との見方もある通勤五方面作戦。
確かに乗車率300%に加えて、当時の電車には冷房もついていなかったそうなので、考えただけでもゾッとします…
この事業を行った先人や、現在の冷房付きの電車には感謝しなければなりませんね。
今回もお読みいただきありがとうございました。